- ■ 漢論
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今回はちょっと濃い内容となります。男臭く汗まみれでエイオスゴッツァンの世界が耐えられない方は見ない方が無難かと思われます。
ちなみに男女差別ではありませんので勘違いなさらないで下さい。さて、まず漢(おとこ)とは何か。
それは武士道等にも似た、男の美学。男の生き様。しかし近年男女の平等化が図られ、女性でも従来の男性のように、 働くなり何なりして、自分なりの幸せを勝ち取ることが出来るようになりました。
そんな時代に「男の生き様」はないだろう。と思われるかも知れませんが、 近年においては「男の」を取った、単なる「生き様」として捉えるとしっくりくるのではないかと思われます。つまり、漢とは、性別を問わない「生き様」である、と。
漢なんてものには確かな指針はなく、自分の思った通り妥協無く信念を貫くことが第一です。 しかしまぁそんなことは誰にだって出来ます。ここまでは単なるわがままで通りますから。
大切なのは、その信念が以下のいずれかに合致しており、またそれに従って行動した結果人に多大な迷惑をかけたり、 傷付けるようなことになってはなりません。- 自分を磨くことを目的とする
- 自分を犠牲にしてでも何かを守り抜こうとするもの
- 何者にもとらわれない、「自分」を持とうとするもの
- 上記の3つに合致する信念を曲げないようにするもの
…とは言っても、迷惑をかけなければ何をやってもいいというわけでもありません。
漢とは本来ストイックであるべきもので、自己を磨くため日々精進していなければなりません。 自分に厳しく、他のものに優しいのが真の漢なのです。
そしてこれは絶対条件ではないでしょうが、漢と呼ばれる人間は概して皆寡黙です。 多くを語らず、自己主張というものをしません。「顔で笑って背中で泣いて」 「不言実行」などという言葉は、漢にぴったりです。例えば、私は孔子などは真の漢だったのではないだろうかと踏んでいます。 ん? 孔子って結構雄弁だったような…? 孔子の詳しい経歴などは知りませんが、孔子の一生は 「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲。不踰矩。」 という言葉で垣間見ることが出来ます。これは「我十五にして学に志し、三十にして自立し、 四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして人の言うことを素直に聞くことができるようになり、 七十にして、自分の欲望のまま行動しても道を踏み外すことがなくなった」という言葉です。
この言葉から孔子の人物像を想像してみると、漢そのものではありませんか。偉人が漢となりうるのか、漢が偉人となりうるのかは分かりませんが、 世の中の偉人は大抵漢だと思います。例えばキリストも、 自分の信念を貫き人々のため献身的な活動を行ってきた(まぁそれが神の思し召しだとはいえ) 結果人々から崇められ、キリスト教の教祖となり得たのです。(まぁ、マホメットやシッタルダは少し違うかも知れませんが)
…ここで勘違いして欲しくないのは、宗教を作れば偉人や漢になれるというわけではないということです。 宗教とは人々を助け護る一つの手段であり、宗教は本来押し売りされるべきものではありません。
まぁキリスト教などは、昔々押し売りされていた時期があるようですが、あんなものは一部の豪族の隠れ蓑にされていただけで、 人々の助けとなっていたわけではなく、「強きを助け、弱きをくじく」ものだったのです。宗教とはそんなものであってはなりません。
その時代(詳しくは知りませんのでご自分で調べて下さい)の、キリスト教を押し売りされて苦しんでいた人々は、 「キリストなんてくそくらえ」と思っていたことでしょう。
今現在キリスト教が世界三大宗教の一つとなり得ているのは、ひとえにそれが、どんな形であれ人々の助けとなっているからです。…と、話がそれましたが、つまりは漢にも共通する信念なしに偉業をなすのは不可能に近いということです。 「近い」というのは、例えば西太后のように、悪い方面で活躍することも出来る、ということです。 この場合、漢とはお世辞にも言えませんが。
もう一つ、漢を目指していると、その本質を見抜けない人間は理解できずにその人の元を去っていくこととなるでしょう。 しかし悲しむことはありません。去っていく人は、その人にとって害しか生まない人間でしょう。 あるいは、その人の精進が足りないのかも知れません。
そうこうしている内に、必要のない人間は離れていき、 素晴らしい人間だけがその人の回りに集まることとなるのです。 孔子やらキリストやらの周りに素晴らしい人が溢れていたのもそういうことだと思います。 キリストなんかは裏切られてたりもしますが…と、宗教の勧誘みたいで嫌になってきたので話を元に戻します。 (ちなみに私は無神論者です。宗教と関わりがあるわけではありません。例として使わせて頂いただけです。)
現代、このような偉人が現れないのは、漢のような生き方が古くさいと思われ、モノがすべてで、 精神面での成長を望まなくなったからではないでしょうか?あなたは、今の自分が本当にやりたいこと、やるべきことを知っていますか?
そして、そのやりたいこと、やるべきことをやっていますか?あなたは、真の正義というものが何であるか分かっていますか?
そして、その正義を貫いていますか?
万人共通の正義などありはしないのです。自分で正義という概念を構築していかなければ、別の何かに流されていくだけです。それを見付け、実行するための一つの手段に漢という生き方があります。